何とか間に合った、お妙誕生日。
………すいません、若布の好みに走りました(爆)。
その爆音と、大勢が走り回る音は、思ったより近くで聞こえた。
誰が追われているのかも、追う側が互いに呼び合う声で、すぐに知れた。
その人を追い回す彼らのしつこさと、それにも関わらずいつも逃げおおせるその人の俊敏さは、いつも弟から聞かされていた。そのとばっちりを時々受けて、正直辟易しているとこぼす弟は、けれどそれでも、仕方ないなぁという風に笑う。
そんなことを、思い出したからでもないのだけれど。
本当に、ただ、たまたまそんな気になったから。
「………桂さん、桂さん。」
店の裏通りの屋根の上を走りすぎようとしたその人に、手招きして見せた。
「かたじけない、お妙殿。」
スタッフルームに通されて、やっと一息を突いた桂は、そう深く頭を下げた。後ろのエリザベスも、それに続く。
「いえいえ。困ったときはお互い様って言いますから。」
にっこりと笑って、手を振って見せた。
まだ早い時間では、他の従業員も来ていない。桂をかくまうには、好都合だ。
それも、時間の問題とはお妙も桂も判っていた。それでも、律儀に桂は頭を下げる。
「本当にすまない。」
「そんな気になさらないでください。どうしてもというのなら、今度お店に遊びに来てくださいな。」
「ここへ?」
桂は少し眉をひそめた。
スナック「すまいる」に、真選組局長が通い詰めているというのは、有名な話だ。それを憂慮しているのだろう。
「大丈夫ですよ、どこぞの局長なんて秒殺しますから(はぁと)」
「それは心強い。」
「ですから、その後でゆっくり、ピンドンをダースでいれてくだされば(はぁと)」
弟やその雇用主が聞けば真っ青になって「鬼ー!」を連呼するだろう台詞だったが、桂は目を瞬かせるだけだった。
「ぴんどんとやらでいいのか?」
「えぇ(はぁと) 何でしたら、1ダースとはいわず、2ダースでも3ダースでも。」
『桂さん、安請け合いしちゃだめですよ。そんなことしたら資金が底を突きます。』
口約束とはいえ、約束は約束。
それをもう少しでかわせるというところで、余計な邪魔が入った。
「あら~。そんなに高いものでもないんですよ? 世間様が思うほど。」
『それでも絶対的高値というものはありますから。』
プラカードの裏で、火花が散る。泣く子も黙る真撰組どころか地獄の鬼すら泣きそうなお妙の視線と、かつて桂を斬ったという人斬りを前にした以上の鋭さを込めたエリザベスのそれとが、真っ正面からぶつかり合う。
「………しかし。」
そんな、水面下の戦いなどどこ吹く風に、あごに手を添えて考え込みながら、桂は呟いた。
「俺が遊びに来てしまっては、俺が楽しむだけで、お妙殿への礼にはならないのではないか………?」
「………いえ、指名というシステムがありましてね?」
『………ていうか桂さん、風俗店の呼び込み、いつもしてますよね?』
毒気の抜けた二人のツッコミに、桂はきょとんと首をかしげて。
「………あぁ。あれのことか。」
「『って遅いわーーー!!!』」
反応の遅い我らが党首に、物理的ツッコミが炸裂した。
様子を見に行ったお妙が、なぜだか着物の裾を払いながら戻ってきた。
礼儀正しく正座をしたまま待っていた桂は、お妙に向き直る。
「如何した?」
「いえちょっと、ゴリラに絡まれまして。」
「ゴリラか。上野動物園あたりから脱走したのだろうか。」
「だったらまだかわいげがあるんですけど。バナナ投げればそっちにつられるでしょうし。」
バナナどころか、鉄拳で何度もお仕置きを食らっても全く懲りることのないゴリラを思い出して、お妙はくすくすと笑う。それこそ弟とその雇用主が見たら、絶対零度の寒さに凍り付くような。
「………しかし、ゴリラがうろついているとなると、危険だな。外見と異なり実際は穏和な動物だが、繊細でもある。パニックになったらその腕力は侮れない凶器になりかねん。警察に通報した方が。」
そうしたら、桂が余計ここから身動き取れなくなるのだが。当の本人は、そんなこと思いも寄らないらしい。弟から聞いた話を考えると、自分の不利な要素が増えても、近隣住民の安全には変えられないのだろう。
「大丈夫ですよ。まだ真撰組も、うろうろしていましたから。」
「しつこいな………。」
桂は顔をしかめ、時計を見上げる。
『そろそろ動く手段を考えないと、バイトに遅れます。』
「それに、うちの他のスタッフも、もう来る時間になっちゃいますよ。」
スナック「すまいる」は、スナック「お登瀬」ほど、桂に対して友好的というわけではない。正しくは、真選組のトップ連中が常連客であるため、親真選組傾向であり、相対的に攘夷志士には厳しくなる。
そんな中で、桂の潜伏がばれたら。
「………仕方がない、行くか。」
『大丈夫ですか?』
「何、いつものことではないかエリザベス。お妙殿、世話をかけた。約束通り、今度遊びに来させていただく。」
金づるゲーーーーーーーット。
ニヤリと心の中ではほくそ笑みながら。
「本当に、大丈夫ですか?」
表面上は心配そうに、そう尋ねる。
「まぁ、何とかなるだろう。芋侍の十や二十くらい。土方や沖田が出張っていなければな。」
聞いたら余計に心配になった。
その二人は見なかったが、そのさらに上が出張ってきていることを、お妙は知っている。
『桂さん出現の報告を受けて、出張ってきてなきゃいいですけど。』
「その時はその時だ。」
『せめて、変装の道具を持って来てれば良かったですね。』
「変装?」
それを聞いて、お妙の頭に閃くものがあった。
「桂さん、いい手がありますわ(はぁと)」
エリザベスに手伝ってもらって、お妙は桂の小袖を身にまとう。
丈は折り返せるから良いとして、横幅がやはり大きい。少し着崩した感じになるかと思いきや、エリザベスが腹巻きを何重にも巻き付けてきた。よく見れば、肩にもパットが入っている。
もこもこして少し動きづらいが、着込んでしまい、さらに「すまいる」のロゴ入り法被を羽織れば、見た目の違和感はあまりなくなっていた。髪を童のするように後頭部の高いところで一本にまとめ上げれば、入り立ての下働きの少年のようだ。
「お妙殿、準備はできたか?」
一人でよく着付けができたものだ、と、お妙は感心する。
お妙の淡い桃色の振り袖を、桂は見事に着こなしていた。こちらも丈はともかく横幅がきつきつにならないかと心配だったが、余計な腹巻きやパットを取り払った桂にはぴったりだったようだ。
「あら、お似合い(はぁと)」
「そうか? この色の振り袖は初めて着るのだが。」
「後は私に任せてくださいな(はぁと)」
鏡台の前に座らせて、お妙は化粧水とファンデーションをまず手に取った。
自分の持っているファンデーションの中から、特に赤みの強いものを選ぶ。チークも、血色が良くなるようたっぷりと。アイラインは逆に控えめで、リップも淡い色のものを使えば、桃色の振り袖に似合った、若々しい美女のできあがりだ。
髪も、普段自分がしているように、高い位置で結い上げる。
「はい、できあがり(はぁと)」
「かたじけない。」
桂を正面に向かせて、じっくり眺めて、お妙は頷いた。
楽しかった。
ここまで楽しめる逸材は、弟ぶりだ。彼の雇用主は、ちなみにお笑いに走った方がいい感じだった。素材は良いけれど作りが男らしすぎるのだ。
鏡台で完成を見届けた桂も、満足そうだ。
のぞき込んだエリザベスが、ぱふぱふと、くぐもった音で拍手する。
『おきれいです、ヅラ子さん。』
「ヅラ子さん?」
「あぁ、俺が女装したときの別名だ。」
「………もっと、かわいい源氏名にすればいいのに。」
「名付け親が別にいるのでな、そうそう改名もできん。この名で定着してしまっているし。」
裾を押さえて、桂改めヅラ子が立ち上がる。そんな仕草も、楚々として丁寧だ。
「だったら仕方ないわね。それじゃ、行きましょうか。」
「………重ね重ね、かたじけない。エリザベス、後で必ず迎えに来る。それまで良い子で待っているのだぞ。」
『はい、桂さん。』
エリザベスに見送られ、ヅラ子とお妙はスタッフ出入り口から、裏通りへと出て行った。
~続く~